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英国ウェールズ横断騎馬旅行 Trans Wales Trail 2005 ​

ウェールズ横断雑記 加藤静富 静岡市 弁護士

1.はなっから爆走される 「いやあ、走られましたねえ ハハ」 「怖かったですねえ ハハ」 「突然ですからねえ。一体どれくらいスピードが出ていたんでしょうね ハアハア・・」 「ガイドのポールがね、30マイル(50キロ)ぐらいは出ているって ハハ」 「競馬なみですね。落馬したら死にますね ハハ」 「ほんと死にますね ハハ」  馬を繋いだ脇でランチボックスの蓋をあけながら、口々に語り出した。 「ハハ」は、とんでもない旅行に参加してしまったという自らに対する力ない溜息のような哄笑である。顔面はこわばり、蒼白。唇は青紫といった態でサンドイッチを口に無理矢理押し込んでいる。 「午後もこんなですかねえ」 「さあ、田中さん(旅行主催者、FRC代表)はそんなことはないって言ってますけど。あの人あまり信用できませんしねえ」 その日、午前10時ごろ、自ら鞍付けした馬にまたがり、南ウエールズ東部の谷間にあるクムフォレスト・ライディングセンターの基地を出発した我々10名は、のんびり山道を登った。牧場には牛が、羊が三々五々草を食べ、空にはヒバリが舞い・・・登りきったところは台地であり茫々たる大平原が広がっていた。 そこで、我々はウエルシュコブ爆走の洗礼を受けたのである。 先頭を率いるポールの乘るマジックがまずもの凄い勢いで駆け出す。最後尾についていた婚約者ジュリーが乗るピューは「ああ、ごめん! あたしコントロールできない! 行っちゃううう!!」との色っぽい叫びとともに、たちまちのうちに我々を追い越して先頭に躍り出て、マジックと競走を始める。他の馬はこれにつられる形でめいめい爆走を始める。  心理的にも、装備等物的にも準備ができていなかった私は、ただ必死にタテガミをつかんで、落馬しないようにするのが精一杯である。 そんな爆走を午前中に数回繰り返された結果の昼食風景が前述の「ハハ」である。もう、午後はこんなの繰り返してもらいたくない・・  旅の最初の晩。長い下り道をたどって、谷間の小さな町に下りる。南ウエールズを代表するワイ川の美しい支流が敷地を流れる、とびきりしゃれたマナーハウス。馬は敷地の庭に放牧したまま宿泊できる。 「午後も走られましたねえ」 「いやあ、参りましたね。お互い命があって良かったですね」 「こんな調子で4日間もちますかね」 「もたないでしょう」 「田中さんは大丈夫だって言ってますけど」 「あの人、信用できませんし」 とびきり美味なディナーをとりながら、少しアルコールが入っているためか、「ハハ」は無くなったものの、明日からの乗馬がまだ不安でならない。


マナーハウスの前庭で。一番手前が筆者


2.なぜ参加したか  今年、田中さんからの年賀状でウエールズへ行こうと誘われた私は「還暦を迎えたことだし、体力的に最後の機会だと思うので、参加します」と返事を出した。  返事をした後、いったいどの程度ハードな馬旅なのだろうか、いままで4回、スタミナ漲るモンゴル馬を疾走させた内モンゴルの旅や、タスマニアのエンデュランスなどに比べてどうなのだろうか、などといろいろ想像し、勝手に、世界で一番大変な馬旅であると結論づけた。  そこで、3年前、スキーで前十字靭帯を切断して手術を受けたときにリハビリのために買い込んだエアロバイクを引っ張り出してきて、毎日1時間これを漕いでスタミナをつけることにした。  しかし、1週間続けるうちに、なんか大した旅でないような気がだんだんしてきて、そのまま無理・無駄・無粋な努力はやめてしまった。  ぶっつけ本番のウエールズ横断こそ、夢見る旅にふさわしい。


3.ウエルシュコブのこと  旅は毎日、谷間の町にあるマナーハウスやらインやらを朝ゆっくり出立し、牧場をいくつも抜けて山道をたどって稜線に向かう。山をいくつか越え、谷に下り、川筋の森を抜け、また山を越え、途中、小さな湖があったり、湿地帯に馬の肢をとられたり(本当にずぶずぶと腰近くまではまってしまうことがある)、いろいろな事を経験しながら、夕方早い時間にまた谷間の町に下りて投宿して酒を呑む。  最初の日、爆走して我々をさんざん脅かしたウエルシュコブ達は、その後はこちらの準備もあい整いということもあって、脅威を覚えることは一度もなかった。  なかったどころか、その親しみやすさ、頭の良さに驚かされる毎日だったのである。 馬たちはたどるコースを完全に覚えている。どこで駈歩を始め、どこで止まるか、どこで快適なトロットに切り替えて乗り手を喜ばすか、間違えることがない。  どんなぬかるみでも、どんな石ころ道でもひるむことがない。どんな急坂でも息をはずませることすらない。  山の険しい道にさしかかり、馬からおりて歩く乗り手がこの登りには耐えられないほどの老いぼれであると判断すると、親切にもしっぽを差し出し「さあ尾つかまり」と言ってくれ、いくら無造作に尾を引っ張り続けても文句もいわない。  十字軍から帰ったエドワード一世が、ウエールズに侵攻してこれを制圧し、かつての支配者の妻を自分の妻にして産ませた生まれたばかりの赤子を聴衆に披露し「この子はウエールズに生まれた者だ。しかも英語を話さない(赤子が英語を話すか!)。もって諸君らの王子プリンス・オブ・ウエールズと名付ける」と宣言した13世紀以来、イングランド王室の皇太子は代々プリンス・オブ・ウエールズである。  しかし、ウエールズの民の意識は、国は併合されて何世紀も経つのに独立の気概を失っていず「プリンス・オブ・ウエールズはウエールズ人ではない」と頑なに拒否をする。そして今でも、「よそ者」の意である「ウエールズ」ではなく、自らをCYMRUカムリと呼び、レッドドラゴン旗を掲げてそのアイデンティティーを確認するのである。  今回の旅の案内人ポールの母親マリアはドイツ人である。英国で英語を外国人に教えていたポールの祖母が、自分の息子(ポールの父マイケル)にイングランド人の嫁を迎えるぐらいならいっそ外国人の方が望ましいということで、教え子のドイツ娘を息子の嫁にしてしまったのである。  そうしたウエールズ人、いやカムリ人にとって、ウエルシュコブは誇りある民族の馬である。  併合された後もカムリはイングランドに対抗して抗戦を続けた。このイングランドに対する抗戦の歴史こそ、カムリ=ウエールズの歴史である。  ウエルシュコブはこの永年の戦闘に使われる間にますます優れた特性を備えていったはずであり、まさにウエールズの誇る馬というべきである。  「誇りあるウエルシュコブ」の感慨を参加者一同、日を追うごとに強くしていった旅であった。

広大な草原をひた走る


4.風の谷に至る  基地を出発して3日目の午後、「風の谷」を通過した。  ウエールズ中央部は、水平方向に見晴らす限りの広大な丘と谷が連なり、天地方向は遮るもののない茫漠たる空と大地があるばかりである。  あるアメリカ人の婦人が「広所恐怖症」にかかったとの実話があるぐらいの広さ都は一体どんなものかは実際に現地を訪れて感じてもらうしかない。  「風の谷」はワイ川の本流と支流が合流する二筋の谷を見渡す丘の上である。そこに立つと、365日、24時間、やむことのない風が谷から吹き上がってくる。  そうした場所であるから、はるか谷の向こう側の丘の上に、巨大な発電用の風車が20数機並んで立っているのを見ることができる。「京都議定書」後、政府がCO2排出量の削減のために建設したものである、とポールが説明してくれた。  もう10年程前、英国・湖水地方の海岸にある使用済み核燃料の再処理工場の調査に訪れたことがある。  ブラックジョークではないが町の名は「WHITE HEAVEN」という。  日本の原発から出る使用済核燃料の再処理をここに委託しており、再処理後のプルトニウムを船で日本へ運ぶことに反対運動が起きていたころのことであった。当時でもこの工場周辺の海岸でガイガーカウンターのスイッチを入れるとピーピーガーガー音をたて、付近一帯が放射能汚染されている事実を証明していた。今年、もっと明白な汚染事故があり、この再処理施設自体、近々運営を止めるとの報道がなされていた。  使用済み核燃料再処理工場の運転停止、風力発電用風車の増設、原油の高騰・・往くエネルギー、来るエネルギー・・  僕らは、馬にまたがり、もっともレトロでアナログの旅を続けた。ガソリンも原発も風力発電もま~るで関係ないような顔をして・・


風の谷で


5.海岸を疾走する  4日間走ってアイリッシュシーの海岸にたどりつく。  この海岸での一走りが最後のイベント。なにも申しません。ポールとジュリーの走りっぷりをご覧じろ。このとおり、我々も馬に残ったありたけのエネルギーを使い切って海岸でギャロップを楽しむことができた。  予想以上の広大で美しいウエールズの大自然を満喫した4日間でした。  少しハードでしたが、エアロバイク漕ぎを1週間で止めてしまった60歳の私、年寄り兆候がいくつか出始めた私でも最後まで楽しめましたから、皆さまにも是非一度参加されるようお勧めします。

ガイドのポールとジュリー、浜辺のギャロップ


*本稿はFRCの会報誌「Freedom Riders」Vol.37 2005年9月発行に掲載されたものです。

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